チームファンタジスタは2013年からスタートし、2022年には10年目を迎えます。毎月開催している「F-MTG(ファンタジスタミーティング)」は、2021年11月で記念すべき100回に達しました。
今回は100回に合わせた特別企画「“遊ぶように働き、働くように遊んだ"わたしたちの軌跡」と題して、ファンタジスタメンバーのインタビューをご紹介します!
第9弾は、高畑千夏(たかはたちなつ)さん。ご自身のキャリアの分岐点で、たとえその時の”マジョリティ”と違ったとしても、常に意志のある選択を積み重ねてきました。日本と海外、さまざまな職場や環境での仕事を経験して、やりたいことや実現したい社会が少しずつはっきりとしていったようです。今回は、これまでの高畑さんの行動の軌跡と、これから取り組まれたいことについて、お話を伺いました。
こんにちは!JR東日本建築設計(以下、JRED)の高畑千夏(たかはたちなつ)と申します。現在は建築設計を行う会社に勤めている私ですが、建築など形のあるものを扱う「設計」をしているわけではありません。設計された場の使い方や、その場が目指すビジョンを共想するといった“形のないもの”を扱う仕事をしています。設計会社のために、同じ会社内に建築士は数百人いるのですが、私と同じ仕事をしている同僚はほとんどいません。今のJREDではマイナーな業務ですが、これからは設計会社も多角的なアプローチを増やしていく時代だと思っています。
私は、もともとのんびり屋な性格。今も動き出すのは遅い方ですが、振り返ってみると突発的な行動力はある方かもしれません。人より遅くても、突発的で勝算のない行動でも、今思えば動いて良かったと思えることばかり。今回は、私のこれまでの行動の軌跡を振り返って、お話をさせていただきます。
勝算のない選択でも、悔いのない方へ
私が大学卒業後初めに就職したのは、商業系企画デザインの会社です。和気あいあいとした会社でしたが、数年のうちに同期がどんどん転職していき、気づけば最後の1人になっていました。そんな環境に少し焦りを感じ自分も転職をと活動してみたものの、どうにもやりたいこと(志望動機)が書けなかったんです。それならいっそ、と、環境を変えるため希望して上海支社へ異動しました。友人達は国内転職や結婚をする人が多い中、当時29歳の私は婚期を逃す決断をあまり考えずに決めてしまいましたが(笑)、私にとってこの選択は良い選択だったように思います。それは、赴任先でようやくやりたいことがおぼろげながら見えてきたからです。
上海の赴任先では、クライアントの想いを紐解き、内装設計をはじめ、設計の前段階であるお店のコンセプトやVI(ヴィジュアルアイデンティティ…ロゴなどコンセプトを可視化するデザイン一式のこと)などを提案する仕事をしていました。仕事にやりがいがあったことに加えて、働く環境自体もガラリと変わったようでした。上海は会社も街も雰囲気が明るく、”利害が及ばない限り他人の事は気にしない”というように良い意味であっけらかんとしており、やっている仕事内容は同じなのに前より仕事が楽しいと感じましたね。
(上海での設計監理中の現場風景。奥の開口部に見える竹足場にも登りました)
同時に異国で暮らしてみて気づいたことは、日本という国の持つカルチャーでした。良い面はもちろんたくさんありますが、東日本大震災時に西日本でも自粛ムードが蔓延したように、社会全体の「同調圧力」が全体的に強いのだということをあらためて認識したのです。時には、街や企業が暗くなってしまうようなスパイラルを作ることも多いのではないか、そう思いました。
また、上海で生活することで、日々の仕事や生活でかえって日本を意識する機会が増え、自然と私も、自分の国が誇れる状態であって欲しい、日本もアジア諸国のようにポジティブで活気のある状態でいられるように貢献したいと考えるようになりました。
そこで自分が携わってきた空間づくりの分野で、公共的空間を対象とする仕事なら日本の活性化に貢献することも可能かもしれないと考え、東日本で駅周辺の設計を主事業とするJREDに転職しました。
会社とプライベートの垣根を超えた模索の日々
JREDなら東日本という広い範囲で、公共空間やその場所を使う人の日常を良くできる。ポジティブで活気あるまちづくりの一端が担えるかもしれない、そう思って入社したものの、私のやりたいことは抽象的で、何から手をつけて良いか分かりません。
そして「日本」に貢献するには、まず「会社」に貢献しなくては実現できないと思った私。ですが、配属されたマーケティングデザイン部は小規模部署で、当時30代前半だった私を除くと他の社員は50代以上の男性5人。自分が近い距離でイメージできる、いわゆる“ロールモデル的存在”がいなかったのです。
そこからは、試行錯誤に励む日々がスタート。社内に手がける人がいないけれどもニーズがありそうな仕事を請けてまわったり、プライベートで居住地のまちづくり会議や都市計画家協会に参加して情報収集をしてみたり。会社とプライベートの垣根を超えて、日々模索をしていました。
すると活動を重ねるうちに、社外活動で仲良くなったセミナー登壇者に、本業のコンセプトプランニングのブレストへ参画してもらうことが叶ったのです。「社外活動をしていると本業にも相乗効果があるんだ」そんなことを体感した、最初の出来事でした。
そしてクライアントや社内のニーズに対応しているうちに、自分らしい仕事のヒントとなるものが見つかります。それは、開発コンセプトを関係者で共創するための議論の場づくりや、そこで出た想いを整理しテキストやイラスト等で可視化する、「ビジュアルファシリテーション」でした。「今までマーケティングデザイン部は何をやっているのかよく分からなかったけれど、こういうこともできるんだね」と、他部署の人からも言われることが増え、自分のやっていることが社内外に少し認知されるようになってきました。
少しずつ自分のできることが増えて達成感を覚える一方で、自分が手がけていたより良い場を作り上げるための「コンセプト共創」は、成果が見えづらいことにどこか物足りなさを感じていました。間接的に日本の活性化に貢献はしているかもしれないけれど、形のあるものを作る設計業務と違い、実感が湧きづらかったのです。そんな悩みに気づき始めた頃、産休育休で15年ぶりに仕事から離れることになりました。
『興味のままに動けばいい』チームに参加して知ったこと
私がファンタジスタの存在を知ったのは、産休に入る直前、JREDに入社して7年目の時のこと。勢いで飛び込んでみると、20〜30代のメンバーが当たり前のように本業×社外活動を組み合わせて各々の活動や仕事に取り組んでいました。
メンバーの目標に対する行動の軌跡、過去と現在を聞いて感嘆する一方、自分は未だ「日本の活性化に貢献したい」という抽象的な目標だけで、そのために自分がどうなりたいかも不明確だと感じたのです。出遅れと育休当時の足踏みぶりに、当初はすこし自信を無くしていました。
それでもミーティングに参加し続けるうちに「何がしたいか分からなくても、興味のまま動いてみることも大事だよね」という意見を聞き、それもそうだな!と自身の現状を受け入れることができました。
ファンタジスタメンバーの成し遂げたことの結果だけ聞くと、ややもすると“特別なイノベーター集団”かとも思われてしまいそうですが、その過程はずっと泥臭いもの。何度かミーティングに参加するうちに、みんな迷ったり期待する結果が得られなかったり、苦悩することもあると知りました。私はそこで、熱意と行動力を持続できる事こそが、最強の能力なんだと気づきました。
活き活きと行動するメンバーに刺激を受け、育休明けと同時に私も一歩を踏み出しました。それが自分にとってどういう意味を持つか、「日本の活性化に貢献すること」につながるのか、本業との関係性は何なのか、まだ言語化できないけれど興味を持ったNPOに入会してみました。今はそのNPOで、日本で暮らす難民の学生に対し就活のサポートをしています。
NPOに参加してみると、全員が本業を持つ様々な業界の人がプロボノとして活動しており、オンラインツールを駆使し超効率的にタスクをこなしています。自分の専門領域や属する業界がいかに狭い範囲か実感するとともに、多くの人が時間やスキルなど資源を持ち寄り何かを成し遂げていくことの可能性を感じています。
アクションがつながる日を目指して
私が暮らしたいのは、誰もが「自分はコミュニティの外にいる人間なんだ」と感じず、居心地よくいられる社会です。現在NPOで難民支援をしている理由は、自分自身がこれまでの人生で「コミュニティが規定するルールからどこか外れているような感じ」があり、”違和感”を感じていたことが根底にあるのかもしれません。
とはいえ今は、ひとまず自分が興味ある「ひとつ」を社外活動として始めてみている段階。引き続き、自分のペースで心からやりたいと思えることを模索していくつもりです。人生100年、のんびり屋でも現役のうちには(笑)、やって来たことが自分の中で本業も含めてひと繋がりに結び付き、「これが私なりの日本を活性化するアクションだ」と言える、そんな日を期待しています。
高畑 千夏(たかはた ちなつ)
神戸市出身、早稲田在住。大学卒業後、商業系企画デザイン会社に入社。2010年から4年間は上海で商業施設などの企画提案、設計に携わる。現在は(株)JR東日本建築設計に勤務。想いの整理や可視化といったビジュアルファシリテーションを担当。2022年から認定NPO法人Living in Peaceの一員として、本業と並行して難民支援に取り組む。
編集:大久保 真衣
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